終活事始め

最大の終活は、健康寿命をいかに長く維持し、周りに負担・迷惑をかけない取り組みをすることだと思います。

浅草寺の観音様はどこから来たか?

 新年おめでとうございます。
 地元の氏神様に加えて、有名寺社に詣でられる方も多いのではないでしょうか。
 自宅近くの浅草、浅草寺も大賑わいです。


 その浅草寺の縁起についてですが、御本尊の観音様は、(推古天皇36年(628)3月18日の早朝)隅田川のほとりに住んでいた檜前(ひのくま)浜成・竹成兄弟が投網漁をしている最中一躰の像を網にかけ、その像を土地の長であった土師(はじ)中知に見せたところ聖観世音菩薩の尊像であると分かり、お堂を造って礼拝供養したものという伝承は多くの方がご存じなのではないでしょうか。


 ただ、日本書記においても捏造があることについては、ウォーキング番外の「聖徳太子の不思議」で書いているところですが、この観音様の示現の伝承についても、そのまま鵜呑みにはできません。
 そもそも、なぜ観音様が隅田川に沈んでいたか?それが網にかかるものなのか?
 土地の長である土師氏はともかくとして、なぜ一介の漁師が“檜前”という姓を有しているのか?
 推古天皇36年(628)は推古天皇が崩御された年でもあるので、何か隠された意味があるのではないか?(浅草寺は推古天皇の菩提を弔うために創建された寺で、この観音様は推古天皇の本地仏という推測をなさる方もおいでです。)
 それらの謎が何かを意味しているのではないかと興味深々です。


 埼玉県飯能市大字岩渕に岩井堂観音というお堂があり、浅草寺の観音様に関する伝説があります。
 継体天皇の治世(507〜531年)に、一人の旅の僧が成木川近辺を訪れた際、美しい山々に囲まれ、清流に沿った岩畳を見つけ、この場所こそ、自分の探し求めていたところとして、堂宇(どうう)を建て、持っていた1寸8分(約5cm)の観音像を本尊として納めた。しかし安閑天皇の治世(531〜536年)に、大暴風が起こり、河川が氾濫し、観音様が祀られた御堂もろとも濁流に呑まれてしまった。それが、およそ100年たってから、成木川〜入間川(いるまがわ)〜荒川〜隅田川と水の流れに乗り浅草にたどり着き発見されたというものです。
 昭和8年には浅草寺執事長により、浅草寺聖観音像の分身が岩井堂に奉還されたとか、昭和40年にはお堂の改築を聞いた浅草寺管長により末寺善竜院の尊像を代わりに安置されたということもあったようです。


 ただこれも納得できる話ではないですよね。
 岩井堂観音の伝説は、継体天皇の治世(507〜531年)や安閑天皇の治世(531〜536年)のこととしていますが、日本に仏教が伝来した“仏教公伝(百済の聖明王から仏像・経典が贈られた)”は、538年なので、その前に「僧」も「観音像」も有る訳がないですね。


 法政大学の田中優子先生の「江戸を歩く」の「浅草寺」部分に大変興味深い記載があります。
 土師も檜前も朝鮮半島からの渡来人の姓であること、武蔵野国に檜前の牧(浅草に開かれた牧場)があり、今なお残る“馬道”という名はそこに通づる道であったこと、「駒形堂」の駒は馬を意味していることから、この渡来人たちが馬を連れ、一寸八分(約5cm)の黄金の観音像を伴って浅草に入植したのではないか。
 6世紀から8世紀にかけては、関東一帯に渡来人たちが入植しているが、馬の飼育、漁の技術、麻、絹、瓦、文字や画、皮革や仏教をもたらしていることが各地の伝承に残っている。


 説得力あるお話ですね。
 土師氏は、古墳造営・葬送儀礼を専門にする氏族でありました。
 檜前は、渡来人の東漢氏の氏寺である檜隈寺が奈良の飛鳥にかつてあり、その地は檜前という地名になっています。そしていまなお、奈良県高市郡明日香村檜前(郵便番号634-0135)として残っているのは興味深いです。


 JA東京中央会HPに「檜前の馬牧」について、次のように記載されています。
 大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。


 台東区が設置した旧町名由来案内看板に「旧馬道」について、次のような記載があります。
 町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったといわれている。


 これらを元に推測すると、大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され浅草に「馬牧」が設置される前後の年代において、その調査・設置・運営を担ったのが奈良の飛鳥を拠点としていた檜前氏で、そのため「檜前の牧」と言われるようになった。
 入植時、観音様を伴なっていたが、その観音様は拠点地である飛鳥周辺には多くの金銅仏があり、その1つであったのではないか?
 ということで、現実性があると思われませんか?


 観音様を推古天皇の本地仏とするには無理を感じますが、東京国立博物館の法隆寺宝物館には、法隆寺から皇室に献納された300余の宝物が収蔵されており、6~8世紀までの金銅仏(数点の観世音菩薩像や様々な如来・菩薩像)も多く展示されています。
 展示物の観音菩薩立像は全て30cm前後などで、一寸八分(約5cm)とはサイズが異なりますが、数多く展示されていますので、そのように多く制作されたものの1体と考えられるのではないでしょうか。


 そしてなぜ、浅草観音の示現を推古天皇が崩御した年としたかとか、なぜ観音像を網にかけたとしたかの設定について述べているものは見出せていません。
 あくまでも想像ですが、持ってきた観音像を祀ることは、推古天皇が発せられた仏教興隆の詔りの流れをくむもので、この女帝を観音像に縁付けたのではないでしょうか。
 また、漁師の投網によることについては、檜前氏グループに漁の専門家がいたかは分かりませんが、いずれにしても漁の技術も伝えていたこともあるので、漁も檜前グループが伝えたということを表すために檜前姓の漁師を仕立て、牧場に檜前の名前がついたことと同様の効果を狙ったのではないか、また、観音像の示現として神秘付けるための脚色だったのではないかとも考えています。
 少し強引でしょうか?
 でも、三社祭で神輿を担ぐにあたっても一層思いが深くなります。


 浅草寺の観音菩薩像は、絶対秘仏で住職も見ることができないようですが、これは、大化元年(645)、観音堂を修造された勝海上人の夢に観音様が現れ、「みだりに拝するなかれ」と告げられたため、以来今日まで、厨子(御宮殿)深く秘仏として奉安しているからなのだそうです。
 神秘性は高まるので、一層の信仰を集めることになるのでしょうが、お姿について噂もあることから、姿があらわになると困ることでもあるのではないかと勘繰ってしまいます。
 浅草寺に限らず、絶対秘仏として御開帳されない仏様も多いですが、人々を救うべき仏様が隠れているのでいいのでしょうか?
 もっともっと由緒ある仏様方が御開帳されているのに腑に落ちません。