終活事始め

最大の終活は、健康寿命をいかに長く維持し、周りに負担・迷惑をかけない取り組みをすることだと思います。

“天照大神”は持統天皇モデル説

前回からの続きで、NHKで放送された“英雄たちの選択”「古代日本のプランナー・藤原不比等」での“天照大神”は持統天皇をモデルとして作られたものという内容についてです。


 いろいろと出てきますので、ここの時代の天皇を整理しておきます。
 第38代 天智天皇(中大兄皇子)
 第39代 弘文天皇(天智天皇の子、大友皇子)
 第40代 天武天皇(天智天皇の弟、大海人皇子)
 第41代 持統天皇(天武天皇の妃、天智天皇の娘)
 第42代 文武天皇(草壁皇子(天武天皇と持統天皇の子)と元明天皇の子)
 第43代 元明天皇(文武天皇の母、草壁皇子の正妃、天智天皇の娘)
 第44代 元正天皇(草壁皇子と元明天皇の娘)
 第45代 聖武天皇(文武天皇と藤原不比等の長女・宮子との子)


 “天照大神”は持統天皇をモデルとして作られたものということについては、そのキーパーソンは、藤原不比等ということで、経歴の紹介がありました。


 藤原不比等(659-720)は、藤原(中臣)鎌足の次男で、幼少の頃から朝鮮半島の百済から渡来し、大阪柏原一帯を支配していた田辺史(ふひと)一族に託され、教育を受けています。
 田辺史(ふひと)一族は、中国の教養を積み、卓越した行政能力で朝廷に仕えていて、単に学問的に優れていただけでなく、工業や各種技術を持っていました。
この頃には、百済は唐に滅ぼされていて、優秀な人材が渡来し、田辺史一族に身を寄せていました。
 不比等は、「後漢書」「文選」(先進国唐を知る重要な鍵)など中国の歴史書を学び、中国大陸や朝鮮半島での礼儀なども学んでいます。
 不比等は、田辺史一族から大きな影響を受けたことにより、田辺史一族の姓である史(ふひと)のを名前として、当初は藤原史(ふひと)と称していました。


 天智天皇の息子である弘文天皇(大友皇子)と弟である大海人皇子(天武天皇)が次の天皇の座を巡って争った壬申の乱では、天智天皇系の中臣氏や田辺史一族は弘文天皇側に加担したため、その後冷遇されました。


 不遇の不比等を歴史の表舞台に引き上げたのは、天智天皇の娘で、天武天皇の妃であり、後の持統天皇でした。
 本来、天武天皇の後継であるべき草壁皇子が早世してしまったため、国の混乱を回避するため、急遽、天武天皇の妃であり草壁皇子の母である持統天皇が即位したのですが、その際、中国の制度や文化に明るく、官僚としても優秀な不比等を取り立てたのでした。
 父親同士が中大兄皇子と中臣鎌足と非常に親密な同志だったこともあるようです。
 不比等は急務とされていた国史の編纂や国の基本法である律令(大宝律令—「律」(処罰などの刑法)・「令」(身分や役職など細かく分類する行政法))の作成に取り組みました。


 そして、その方向性は、自分を表舞台に引き上げてくれた持統天皇が何をして欲しいか意図を聞き取り、具現化することでした。
 不比等は、持統天皇のニーズ(朝鮮半島で百済なき後攻められるかもしれない政情の不安や孫を後継にしたいという欲望)に合わせて大陸の知識を使えた人物だったのです。
 番組では、大宝律令と日本書記で何をしたか分けてみています。


大宝律令
 唐と対峙するためには、日本独自の法律を示す必要がありました。
 天皇の後継は、かつて兄弟などもありましたが、嫡男と定めました。
 また、太上天皇という位を制度化しました。
 太上天皇とは、譲位した先の天皇で、若くして即位した新天皇を後見し、補佐する役目を担い、天皇と同等の権限を有するものです。
 これにより、安定した皇位継承が可能となります。
 持統天皇は、孫である軽(かるの)皇子(草壁皇子の子)を後継者としたかったので、この制度の活用により、15歳の軽皇子を文武天皇とし、自らは太上天皇となりました。
 不比等は長女宮子を文武天皇に嫁がせ、天皇の義理の父親となることで、朝廷での権限を一層強めていきます。


日本書記
 我が国最初の勅撰国史「日本書記」全30巻で、歴代41代(持統天皇まで)の天皇の功績や記録を伝えるものです。
 天照から始まった皇統が今ここにあって、その血を引くあの持統天皇がおられるというストーリーに落とし込むことは非常に重要なのだそうです。
 第1巻「神代(かみよ)」では、天と地が創られ世界が生まれる天地創造や二人の神が「国生み」で日本を創る様子が描かれ、その後神々が住む高天原を支配する天照大神が自分の孫ニニギノミコトを地上に送り、その子孫である天皇がこの地を統治するようにしたと描かれています。
 これについては、持統天皇以降の皇位を安定させるために、不比等が手を加えていると考える学者が多くなっているのです。
 日本書記で、最も書き換えが多いのは、持統天皇の箇所のようです。
 そして、驚いた事に、持統天皇の死後の送り名を「高天原廣野姫天皇」として、“高天原”で“天照大神”を彷彿とさせる名前が付けられているのです。
 “天照大神”は持統天皇をモデルとして作られたもの説の1つの根拠です。
 実在する持統天皇をモデルに“天照大神”の神話を作り上げるという、こんな大胆なことができるのは、この時代に一人しかおらず、不比等であったとの解説です。
 天孫降臨も持統天皇の思惑に沿った不比等の思惑が込められているようで、天孫降臨は、“天照大神”が孫のニニギノミコトを降臨させ国を治めさせたという神話ですが、“天照大神”は、自分の子供ではなく、孫を地上に降臨させています。
 そのキーワードは、“孫”で、持統太上天皇と孫の文武天皇を重ね合わせているのだそうです。
 完全に文武天皇を意識してその血筋がずっと続くように極めて政治的意図に基づくもので、不比等が日本書記の編纂で実現しようとしたことは、万世一系の皇統が持統天皇、文武天皇へと引き継がれることをこの国が尊むべき型として歴史に残すことのではないかとの考察には説得力があります。


その後
 文武天皇と不比等の長女・宮子の間に首(おびと)皇子(後の聖武天皇)が出生し、702年に持統太上天皇崩御(58歳)、707年には文武天皇崩御(26歳)します。
 この頃、国は、干ばつ、飢饉、台風、疫病など度重なる災害に不安定な状況に陥っており、不比等の孫の首(おびと)皇子は7歳だったので即位は考えられない状況でした。
 そこで、不比等は、国の混乱を避けるため、文武天皇の母(天智天皇の娘・持統天皇の妹・草壁の妻)を中継ぎで元明天皇として即位させ、次に草壁皇子と元明天皇の娘を元正天皇として直系を維持し、孫の首(おびと)皇子・第45代 聖武天皇に繋げたのです。


 伊勢神宮HPには、「およそ2000年前、垂仁天皇の御代から五十鈴川のほとりに鎮まります皇大神宮は皇室の御祖先であり、我々国民から総氏神のように崇められる天照大神をお祀りしています。」とありますが、日本書記にも第11代垂仁天皇の御代の縁起として記載されていますので、神話チックなことは、日本書記によるところが大きいのでしょうね。


 ここで大きな疑問なのですが、天照大神を祀る伊勢神宮が、モデルの持統天皇の墓陵に比べてあまりに広大なことです。
 天照大神が、モデルの持統天皇の枠を超えて、日本人の総氏神で皇室の御祖先として、また、八百万の神々の中心に位置し、太陽にも例えられる神様として祀り上げられたからなのでしょうか?
 このようなことを喧伝したら、伊勢神宮信仰はもとより、神道はなりたたないので、うやむやがいいのでしょうか?


 それでも、天上にあるべき高天原や天石窟(あめのいわや)が地上のいたる所に観光名所としてあるのも違和感がありすぎですね。


天武天皇・持統天皇陵(2022.05撮影)
持統天皇は天皇として初めて火葬されている。
墳丘は、東西58m、南北45m、高さ9mの円形状