終活事始め

最大の終活は、健康寿命をいかに長く維持し、周りに負担・迷惑をかけない取り組みをすることだと思います。

スエーデンに寝たきり老人はいない

 「スエーデンに寝たきり老人はいない」とは、かなり衝撃的フレーズですね。
 和田秀樹先生の「どうせ死ぬんだから」の1節のタイトルです。 
 福祉国家で知られるスエーデンでは、高齢者が寝たきりにならないように国家を挙げて取り組んではいるのですが、スプーンで食べ物を口に持っていったときに食べようとしなければ、もうこれは「神の思し召し」ということで、点滴もせず、もはや生きる意思がなものとして、その後は延命治療をしないという社会的合意ができているので、これも寝たきりがいない一因だと書かれています。
 「神の思し召し」と言われると抵抗がありますが、自分自身の死生観としてもこうありたいと思っています。


 さらに、日本では、無駄な延命治療はしないという社会的合意がないどころか、医学界では延命治療について十分な議論がされることもなく、「医師であるもの、患者を生かす方法があったらなるべく生かす」という考え方が明らかに確立されてしまっているとされているのだとか。


 昔は、日本でも終末期を迎えると何も医療を施されず、最後が近づいたら何も口をつけずに衰弱していって、眠るように死ぬ、本来の「老衰死」であり、体内の水分がなくなって枯れるように死ぬのが、人間にとって自然な死だとおっしゃっています。


 どなたの本か失念しましたが、そうやって亡くなった方と、最後まで点滴などでチューブに繋がれ延命治療を受けていた方では、死後の体重が10kgほど異なると書かれていました。
 葬儀屋さんは、その方がどのような亡くなり方をしたか、重さですぐわかるのだそうです。


 「家で死のう!」の萬田緑平先生も、病院で治療を受けると、体力の限界まで「生きさせられる」から苦しい。延命治療を続けると、患者の苦しみや痛みは二の次になってしまい、どんな状態であれ生きていたほうがいいと考えるのが医療であると書かれています。


 お医者さんの全てが、このような考え方ではなく、延命治療の在り方について疑問を抱かれている方も多いと期待しますが、日本でも一日でも早くスエーデンのように考え方が確立されることを願ってやみません。


 私自身の考え方は、9月8日付けのブログ『「がんの壁」を読んで【終活】』に書いた通りです。
 チューブに繋がれて、痛みに堪え苦しみながら、たとえ痛みが軽減されたとしてもただ生きながらえさせられているのは、私にとっては耐えがたいことですし、人間の尊厳が保たれているとは言い難いと考えています。
 そして、最も気にかかり恐れ避けたいことは、死ぬことではなく、老いさらばえて家族
に犠牲を強いることです。


 現在、医療保険がひっ迫していることが社会問題になっていますね。
 高齢者への高給付に対して、働き盛りの高負担の構造は、いつか破綻すると危惧されています。
 死生観には個人差があり、強制はできませんが、もう少し、先ほどの延命治療の在り方など終末期医療の議論が深まっていけば、医療の言いなりの終末期医療や延命治療が減り、医療費軽減にも寄与することになるのではないでしょうか。