終活事始め

最大の終活は、健康寿命をいかに長く維持し、周りに負担・迷惑をかけない取り組みをすることだと思います。

源氏物語と紫式部【浮舟】

 紫式部は、源氏物語を書き続けることにより、一条天皇と彰子を結び付け、後の天皇を生ませるという道長からのミッションを達成したわけで、物語的にも、パピーエンドの大団円かと思いきやそうではありませんでした。


 道長も今だ摂政になれていなかった段階であったので、摂政になるため、源氏物語の続きを催促したそうです。


 紫式部自身、「33帖までは、読み返しても昔のような感動は全く湧き起らず、あきれるほど味気ない。本来書きたかった内面の苦しみが描き切れていない。満足のいくものではなかった。」との心境を紫式部日記に書いています。
 また、同じ日記に、「水鳥の水面の下の足はとても苦しいのだろうと思い比べてしまう。」とも書いています。


 番組の解説では、華やかに見えても人生の苦しみは必ず存在する。さすれば救いはどこに存在するのか。式部は己と格闘しながら物語を書き続けた。そして、源氏に、己の重ねた軽率な行動を恥じても、時すでに遅しで、悔やんでも悔やみきれない苦しさを背負わせたのだそうです。


 そこで、第二部、第三部と54帖まで書き続けられるのですが、いきなり、幸せの絶頂にある紫上(前の帖までは彰子に見立て)を絶望のどん底に突き落とすのです。
 源氏は、兄の帝の娘・女三宮を正妻に迎えるのです。
 (兄帝も何故、こんな源氏に娘を降嫁させるのでしょうか?)
 紫上は、改めて、自分が妾同然であることを悟り(その他、源氏の多くの女遍歴・放蕩もあり)、心労を重ね、病に倒れて、死んでしまうのです。


 この第二部の紫上が、彰子か(一条天皇は光源氏でしたね)、どうかの解説はありませんでしたが、どう見ても一部の続きと思いますよね。
 天皇や道長、彰子は、これを読んでどう思ったのでしょう?
 不思議でたまりません。
 凡人には理解しかねるところです。
 でも、書いておきます。


 常に女性を奪い、傷つけているのは源氏で、紫上にここまで悲劇をもたらさなければ、源氏の悔悟が導きだせなかったのでしょうか。
 いずれの帖においても、実際のエピソードを結構参考にしているらしいのですが、そんな何人にもよるエピソードを源氏一人に体現させ、50歳を超えて、やっと「己の重ねた軽率な行動を恥じたが、時すでに遅しで、悔やんでも悔やみきれない苦しさを背負わせた」のでは、余りに遅すぎますよね。


 そして、源氏は、出家した後(当時は死に臨んで出家するようです。)、亡くなるのですが、ここまで放蕩させたなら、安らかに死なせず、「悔やんでも悔やみきれない苦しさ」にのたうち回って、又は、これまでの女性達の怨霊に取りつかれてもがき苦しんで最期を迎えさせて貰いたかったです。


 第三部は、源氏の正妻となった女三宮が密通して出産した薫(かおる)と源氏の孫の匂宮(におうみや)を主人公として、浮舟というヒロインを造形しています。
 番組解説では、紫上が源氏から離れられなかったのに対して、薫と匂宮に翻弄された浮舟は、男から離れ(身投げし)、生きながらえて、仏教に救いを求め、出家するのですが、仏教で救われることにも懐疑的で、仏教も男も信じられない寂しい孤独にさいなまれ、辿り着いた境地は、「何も信じるものがなくても、それでも、生きていく、それが人というものだ。」なのだそうです。
 こんなこと分かりませんよね!


 当時の背景として、世の中は大いに乱れていて、地方では朝廷に対する反乱が勃発し、地震・水害・疫病が蔓延して、多くの命が失われていて、人々は、せめて来世では極楽往生したいとすがったのが仏教だったとのことです。
 そりゃー、宮廷の高官達がこんな御乱行では世は乱れますよね。


 仏への信仰の世界にも歴然とした格差が存在していて、寺社を建立したり、多額の寄進をした裕福な者が、極楽往生するという考えが広まっていたようです。
 平安時代の仏教は、皇室や貴族の現世利益志向に応える性質を備えていて、皇室や藤原氏などの貴族のための仏教、という性格を基本的に持っていたようです。
 物語に「比叡山横川に某の僧都という徳の高い僧」がでてきますが、実際、横川僧都(よかわそうず)と尊称される源信(げんしん)(恵心僧都(えしんそうず))という方がおいでになって、死後、阿弥陀如来により救くわれる救浄土教を説かれ、1004年には藤原道長が帰依しています。
 物語はこの方を当てているのか分かりませんが、式部は横川の某の僧都をこき下ろしています。
 何があったのでしょうか?


 番組解説でも、浮舟ヒロインの宇治十帖からは、そんな風潮などへの式部のさめた視線が感じられるとのことです。
 浄土思想そのものへの反発か、僧侶そのものへの不信感か、金持ち有力者の手前勝手な振る舞いへの批判か、その全てか、私には全く読み取れません。


 式部の晩年の和歌に、「誰が世に 永らえて見む 書き留めし 跡は消えせぬ 形見なれども」というのがあって、私が死んだ後、この物語を読む人はいないかもしれない、でもかまわない、言いたいことは全て書き尽くしたのだからという意味なのだとか。


 言いたいこととは、「何も信じるものがなくても、それでも、生きていく、それが人というものだ。」ということでいいのでしょうか?そうとするなら、式部先生はどういうご心境だったのでしょう?
 一条天皇の后であり、二方の天皇の母君で大きな力を有していた彰子に長らく仕えていて、人もうらやむ立場だったと思うのですが、なぜ、そのような心境に至ってしまったのでしょうか?
 そして、式部先生が、伝えたいと思ったことは、どれだけの人に伝わっているのでしょうか?


 最終帖の夢浮橋は、物語全体の終わり(式部自身、言いたいことは全て書き尽くしたのだからと言っているので)なのに、中途半端に突然終わっている感じで、余韻を残して、後はあなた方がそれぞれに想像してということなのか分かりませんが、「何も信じるものがなくても、それでも、生きていく、それが人というものだ。」なのでしょうか?
 浮舟は、仏門に身を委ねたままだと思うのですが、まさか、還俗して薫か匂宮と結ばれるなどありえないですよね。


 平安京・時代の創始者である桓武天皇は、「理想の平安」について、身分の高いものも低いものも等しく天皇の恩沢に浴して喜びの声が溢れていることとされていますが、朝廷に対する反乱が勃発し、地震・水害・疫病が蔓延して飢饉で、治安も悪く、芥川龍之介の羅生門さながら 多くの死体が散乱し、老婆が女性の死体から長い髪を引き抜いて鬘を作っている日常は、平安とはほど遠い世界ですので、式部は、宮廷生活そのもの、男女関係、生きることそのものに無常、空虚を見ていたのでしょうか?


 悩みながら、終わります。