終活事始め

最大の終活は、健康寿命をいかに長く維持し、周りに負担・迷惑をかけない取り組みをすることだと思います。

源氏物語と紫式部【桐壺】

 NHK大河ドラマで「光る君へ」が始まりました。
 それに合わせてか、「英雄たちの選択スペシャル 紫式部 千年の孤独 ~源氏物語の真実~」が放送され、私のいままでの源氏物語のイメージが180度変わりました。


 源氏物語は、訳本でも読んだことはなく、読んだのは、小泉吉宏氏の「大掴(おおつかみ)源氏物語 まろ、ん?」(漫画)で、あとはTVドラマなどの情報くらいでしたので、源氏物語と紫式部について書こうなど、大変失礼でおこがましいのですが、あまりにも衝撃的だったので、書き留めます。


 私のブログテーマ「終活」から懸け離れるようですが、健康寿命を伸ばす一環、認知症予防の一貫として、調べ事をし、纏めることは大切ですので、お許し下さい。
 長くなりそうなので、僭越ながら【桐壺】【若紫】【浮舟】として3回に分けることといたします。


 源氏物語誕生の背景ですが、理解促進のため登場人物をザックリ整理してみます。
 ( )内は、「光る君へ」の配役です。


 権力者藤原兄弟は、 道隆(井浦 新)、詮子(吉田 羊)、道長(柄本 佑)、他
 一条天皇(塩野瑛久)は、円融天皇(坂東巳之助)と、詮子(吉田 羊)の子
 一条天皇(塩野瑛久)の后が、道隆(井浦 新)の娘 定子(高畑光希)と道長(柄本 佑)の娘 彰子(見上 愛)、他
 紫式部は、彰子(見上 愛)に使えた女房、定子には清少納言


 私が思い込んでいたというか見たドラマの不確かな記憶では、一条天皇を取り巻く後宮に、定子(高畑光希)サロンと、彰子(見上 愛)サロンがあって、天皇の関心を奪い合うため競っていて、劣勢な彰子(見上 愛)サロンに、父・道長(柄本 佑)が紫式部を送り込んだということでした。
 そして、紫式部は、天皇を引き付けるため、ゴシップネタをふんだんに盛り込んだ週刊センテンススプリング(=源氏物語)を小出しに書き続け、天皇を彰子の元に通わせることに成功したということでした。


 源氏物語を調べると、54帖からなり、和歌795首が詠み込まれ、400年にも及ぶ平安時代で貴族階級が最も勢いのあった平安中期の貴族社会が描かれていて、文章ではなく和歌で描く男女間の核心部分の描写力をはじめ日本や中国の歴史書、漢籍、漢詩への造詣の深さに裏付けされた記述も随所に見られ、一条天皇からも評価され、現代においても世界から高い評価を得ているとのことなのです。
 漫画で読んだだけの私には、和歌で描く男女間の核心部分の描写力をなど理解が及んでおりませんでしたし、内容が、スキャンダルや無秩序・奔放恋愛、性犯罪、ゴッシプのオンパレードと思い込み、例え美しい文章や歌で書かれたものだとしても、文学的価値はないのではないかと思っておりました。


 そして、世界から評価を受けるのは、仮名文字で書かれた、最古の古典だからと思っていましたし、さらには、現代の女性達に何故、支持されるのか理解できませんでした。


 例えば、光源氏は、父・桐壺帝の妃で、亡き母・桐壺更衣と瓜二つの藤壺女御と密通して、子をなし、生まれた子供を帝の子供として育てさせ、後に冷泉帝として帝にしてしまうのです。
 こんな話を、よく当時の人々は許容したものだ、天皇も喜んで読んでいたとは驚き以外の何物でもありません。
 馬鹿げた空想だからとも思っていましたが、紫式部は結構まわりで起こったことを題材にしているようなので、こんなことも実際おこっていたのでしょうか。


 また、この時代は、庶民は分かりませんが、貴族の世界では、歌の上手・下手が女性の美しさを計る大事な要素で、和歌や手紙の出来栄え、近くを通った時の匂い、琴の音色で見初め、男女が直接顔を合わせることはなく、手紙で和歌を詠み合い愛を育むのが普通で、成就しても会うのは夜、暗闇の中で関係を持つ時だけだったそうです。
 男性が女性の所へ通うのですが、3回連続で通うと結婚だったのだとか。
 結婚しても、一夫多妻制で、相変わらず夫が妻の家に通うものでした。


 そんなものならまだ良しとしても、場当たり的な性交渉や強姦まがいのことも通常にあったようです。
 源氏物語でも、藤壺女御との密通以外にも中流家庭の帚木(ははきぎ)の強姦から始まって枚挙に暇がありません。
 貴族の女性は、夜這いをされても、助けを呼ぶような大きな声を出すことははばかられていたそうです。
 暗闇で相手を間違ってしまった空蝉や琴の音に惹かれて暗闇で契った相手が稀代の醜女だった末摘花など、こんな話がウケたとは信じがたいです。
 光源氏が20歳頃、源典侍(げんのないしのすけ)という57、8の老婆(今は美魔女でしょうが、当時は老婆です。)にも言い寄っていますが、醜悪です。
 光源氏は、いったい何人と性交渉したのでしょうか?数えるのも億劫です。


 紫式部自身も「方違え(かたたがえ)」で帚木(ははきぎ)に似た経験があるようです。
 それは紫式部が自らまとめた歌集「紫式部集」の中にたった一首だけ収められている男への歌により明らかになっているようです。
 当時、不吉な方角へ出かける際に、前日に良い方角の家に泊まる風習(方違え(かたたがえ))があり、それでたまたま式部の家に泊まった男が、式部と姉の寝室に忍び込み、翌朝、何食わぬ顔で帰って行った後、式部がその男に宛てた歌が「おぼつかな それかあらぬか あけぐれの そらおぼれする 朝顔の花」で、これは「はっきりさせて、昨夜は私と知ってのことだったのですか、とぼけた朝の顔ではわかりかねます(姉と私を間違えたのか、それとも遊びだったのですか)」という意味なのだそうです。
 まだ歳は10代でしょうし、家に来るくらいなので顔見知りであったかもしれませんが、お付き合いしていたわけではないと思われますので、そんな簡単に性交渉に及ぶ文化とはすごい時代です。


 紫式部は、夫の死後の30歳頃、「帚木(ははきぎ)三帖(帚木、空蝉、夕顔)」を執筆(この3帖は源氏物語として再執筆)し、宮中で評判を得るのですが、私は、内容がゴシップの好色本なので、欲求不満の宮中の女官にウケたのではないがと思っています。
 紫式部自身、紫式部日記で「光源氏という名前だけはご立派なものが、褒められたものではない、恋の過ちが多い、さらにこのような色恋沙汰が後世に伝わり、軽薄な浮名を流すことになろうとは」と書いています。
 私は、お恐れながら「帚木」は、紫式部自身の「方違え(かたたがえ)」の経験を元にしているのではと思っているところで、また、紫式部ご自身が、物語自体、軽薄な男の話ですよとおっしゃっているのだと思います。


 現代の女性の皆さんは、そんな時代の男女関係に憧れるのでしょうか?
 これとも、主人公の光源氏が絶世の美男子という点のみで憧れるのでしょうか?


 源氏物語の主人公光源氏の実在モデルといわれるのは、源 融(みなもと の とおる)という方といわれており、私もてっきりそれが事実と思っていました。
 調べてみると、嵯峨天皇の第十二皇子で平安時代初期から前期にかけて(822-895年)の貴族で、享年74 最終官位は左大臣従一位、没後正一位を受位ということです。
 源氏物語にあるような女性関係があったようではありません。
 この時代に、源融の行動記録があったわけではないでしょうから、973年生まれの紫式部が源融のことを知りえたとは思われません。


 ただ、源氏物語の豪邸六条院は、源融の建てた河原院(かわらのいん)と場所も広さもほぼ同じ設定などであり、いくつかの設定で、紫式部が源融の事跡をなぞっているからと考える方も多いようです。
 でも違うようです!
 そして、源氏物語執筆には驚くような背景があることを知りました。


 つづく