終活事始め

最大の終活は、健康寿命をいかに長く維持し、周りに負担・迷惑をかけない取り組みをすることだと思います。

日本書記の不思議

 NHKで放送された“英雄たちの選択”「古代日本のプランナー・藤原不比等」では、“天照大神”は持統天皇をモデルとして作られたものという内容だったので、驚愕するとともに、だんだん私の中の歴史の不思議の霧が晴れていく感じがしました。


 日本書記における史実の捏造については、2022.11.15に投稿した「ウォーキング番外2 聖徳太子の不思議」においても書いています。
 日本書記は、国家によって正式に編纂され、日本という国名が初めて使われた日本初の歴史書です。
 681年に第40代天武天皇の命令により編纂が始まり、720年に完成した全30巻のもので、1・2巻は、神々による日本の創生の神代紀、3巻以降は、初代神武天皇から第41代持統天皇までの天皇家の歴史が綴られています。
 ただ、自身の皇位継承を正当化するための天武天皇や天武天皇崩御後に編纂に携わった藤原氏など権力者によるあきらかな捏造が認められているのだそうで、神代紀などはもとよりですが、聖徳太子の超人伝説、聖徳太子の息子山背大兄王を蘇我入鹿が単独行動で襲撃して一族自害させたこと、大化の改新のきっかけとなった中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足が蘇我入鹿を討った乙巳の変のこと、天智天皇の息子の弘文天皇(大友皇子)と弟で後に天武天皇となった大海人皇子が争った壬申の乱のことなども捏造している部分があるとみている説が有力のようです。
 厩戸皇子(聖徳太子)は、従来、叔母に当たる第33代推古天皇の皇太子兼摂政として政治改革にまい進し、冠位十二階、十七条憲法を制定、遣隋使を派遣して大陸の文化・文明を吸収し、四天王寺を始めとし、法隆寺など多くの寺院を建立し、仏教の普及に尽力したとなっていましたが、その頃は、皇太子や摂政という地位はなかったし、十七条憲法も天武天皇の時代以降につくられた可能性が高いことから、その制定には携わっていないことが分かってきているのだそうです。
 それでは、なぜ、日本書記は、厩戸皇子を超人的皇太子に仕立て上げる捏造をしたかということですが、厩戸皇子の頃にはなかった皇太子制度が7世紀後半に中国から輸入されたのですが、皇太子というものの共通認識ができていなかったところ、日本書記が完成する720年に皇太子になったのが後の聖武天皇となる首皇子(おびとのみこ)で、編纂に大きな力をもっていた藤原不比等の孫のこの皇子に皇太子の理想像を見せるためのものだったと言われています。
 このことは、のちに聖武天皇が仏教に厚く帰依し、大仏建立することに繋がっていると見られています。


 この聖徳太子の不思議についてがテーマの時は、私が日本書記に触れたのは、「マンガならわかる!『日本書記』」だったので、日本書記について何か語るのはおこがましいと思っていたのですが、“天照大神”が、なぜ最上神であるのか疑問を抱いていました。
 1・2巻の神々による日本の創生の神代紀においては、幾つかの伝承が記されているのですが、最初に生まれた神さまはクニノトコタチノミコトですし、次に男神、男女ペアの神々が生まれ、やがてイザナキノミコトとイザナミノミコトが生まれ、この二柱の神が「国生み」として日本列島を生み、海、川、山、木、草を生み、そして世界を治める神々を生むのですが、最初に生まれたのがオオヒルメノムチで天に昇って世界中を照らす役割を与えたことにより最上神である“天照大神”となります。
 なぜ、最上神は、最初に生まれたクニノトコタチノミコトではないのか、天照大神を生んだイザナキノミコトとイザナミノミコトではないのか、西洋の太陽神は男性なのになぜ女性神を太陽神にしたのか、また別の説によれば、イザナミノミコトが汚れた体を清めるための禊の際に左目を洗ったときに生まれたのが天照大神なので出生に格式もないため天照大神が最上神であることに違和感を抱いていました。


 そして、この「創生の神代紀」が何を意味しようとしているのかが大いに疑問でした。
 何かしらの意図がなければ、捏造どころか全く荒唐無稽な物語で、国史にならないではないかという疑問でした。
 例えば、天照大神の大国主命が国を譲る「国譲り(出雲の支配権を献上」においても大和政権による日本統一の姿を表したもの(神話化)との説を聞いたことがありますが、同じように何らかの意味があると思っていたのです。


 日本書記は、第40代天武天皇(673~)命令により編纂が始まり、第44代元正天皇(715~)時代の720年に完成しました。
 この頃は、天武天皇の兄である天智天皇時代、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済の遺臣から救援要請を受け、朝鮮半島の南の「白村江」で唐・新羅連合軍と戦い、大敗し、唐によりいつ攻め込まれるかもしれない危惧に見舞われていた時代であり、文武天皇時代の702年に39年振りに遣唐使を再開するまでの間、外交重視政策を推進していました。


 番組の解説では、唐と対等に外交するには、律令(法律)、国史(歴史編纂)、都(儀式など含む)の3つが確立していなければなりませんでした。
 外交先の唐の基準では、歴史書を持っていないと野蛮国であり、唐に取り込まれてしまう危惧があったので、自国の歴史を纏め、確かなものとすることが重要になっていました。
 唐と同等の古い歴史があるという証拠を漢文で示さなければいけなかったのです。
 取り込まれないために、漢文で作られていて、急いで作っていることから色々間違いがあります。
 内容的にも、神々に守られているという神格化をしたり、多少出鱈目であろうと、ともかく格好をつけないと国が持たないという状況でした。


 “天照大神”は持統天皇をモデルとして作られたものということについては、そのキーパーソンは、藤原不比等(中臣鎌足の次男659-720)で、国史の編纂と律令の制定に生涯をかけて取り組んでいるのですが、その中で、日本書記は、時の為政者に都合がいいように書かれていても不思議ではなく、不比等や持統天皇がいたときの政治状況で書かれた歴史書と考えられています。
 そこがモデル説の肝なのですが、長くなりますので、次回に譲ります。