酒飲みの達人
「酒は百薬の長」とも「酒は万病の元」とも言い、「酒を飲むのは時間の無駄、飲まないのは人生の無駄」など色々言われます。
和田秀樹先生は、「酒は前頭葉を縮める」「酒は、ストレス発散効果があるとはいえ、基本的には脳にダメージを与える物質」「大酒を飲んだとき、記憶がなくなるのも、脳内で記憶に関して重要な役割を果たしている「海馬」という部位が麻痺するために起きる現象」「一時的な“記憶喪失”は、酒からさめれば解消されるとしても、毎日のように大酒を飲んでいると、前頭葉が確実に委縮する」と注意喚起されていますが、それは、大酒を飲んだ場合で、日本人は酒に強い体質でないため、欧米人のように脳が破壊されるまで飲む人は多くなく、自身が楽しむ範囲は問題がないとされています。
また、“連続飲酒”とは、「毎日」飲むのではなく、「一日中飲み続ける」ことで、高齢者は我慢してストレスを溜めるより、「晩酌を楽しむ」ことの方がいいとのことです。
私は、入社前にはほとんど酒は飲めず、入社してから鍛えられ、飲めるようになりました。パソコンどころかワープロもなかった時代ですから、人も多く、忙しい時は忙しいのですが、それでも先輩に連れられて飲む機会も多かったです。
“ノミニケーション”は死語でしょうか。
でもそれによって随分とコミュニケ―ションがとれていました。
吐いてしまった醜態も今となっては懐かしい想い出です。
同じ部に、面倒見の良い若手のリーダー的存在の先輩がいて、皆で飲みに行く機会もありました。その中の一人に天然も少し入っていたかもしれませんが飛んでいる女性がいて、生真面目なだけで俗にいう“堅物”だった私にとって、殻を破ってその世界に少しでも近づきたいという憧れを抱かせてくれる、眩しい存在でした。
ある時、何かの話の流れで、「男の人は、自分の行きつけの店を持たないとね。」と言われたことがあります。
それから同期の友人と、「行きつけ」の店に巡り合うべく、赤坂や新宿などにも出かけました。この頃は普通に飲めるようになっていましたが結局、見つけられないまま、仕事も多忙になったため、飲みに出かけることもあまり無くなってしまいました。
でも、「行きつけの店」のことはずっと頭の中に残っていました。
余談ですが、若い頃、ビールは苦くて飲めなかったのですが、当時はゴルフが盛んで、先ほどの先輩の「練習場で10球中6球当たればコースに出られる」という言葉を信じて、「8球当たるので出ます」ということで、真夏のコースに初めて出たところ、走り回って汗だくで、ハーフが終わった昼食で生ビール大ジョッキを一気飲みして以来、飲めるというか大好きになりました。
平日は、自宅で夕食を食べるということはほとんどありませんでしたが、食べれる時には、妻が必ずビールなど揃えてくれました。妻の父も夕食時には飲む人だったので、用意するのが普通だと思っていたようです。
もちろん今は、自分で用意しています。
50歳になる頃には、仕事でのストレス解消で週に1度は1人で飲みに出かけることができる時間的余裕ができました。墨田区に転居した後だったので、向島や浅草が主でした。
伺った店のママさんに、評判やお勧めの店を教わって、出かけたりしました。
その頃の浅草は今と違ってさびれていて、活性化が課題でした。
逆に今の向島はさびれていく一方のような気がして寂しいです。
とても「行きつけ」にはなれませんが、伝統のある店は魅力的でした。酒場、寿司、うなぎ、どぜう、天ぷら、炉端、蕎麦、釜飯、おでん、焼き鳥、イタリアン、食堂などで、その中で、「なじみ」の店もできるようになりました。
個人のお店は、2回目を直ぐに行って「裏を返し」ておくと、3回目には随分話しやすくなります。
それらの店を、その時あった地域情報ポータルサイト「e-まちタウン」に投稿し、その数はかなりになったのですが、2015年に不正アクセスを原因としていきなり閉鎖してしまいました。
サイトを信頼して、いつでも閲覧できるからと、バックアップしていなかったので、今はその記録を読み返すことができず残念でたまりません。
その頃、投稿していた店の中でも、後継者問題や大手の進出などで廃業してしまったところがかなりあります。
特に、表浅草は様変わりです。
浅草には“三大酒場”と言われている店がありました。
1軒目は、創業明治13年、電気ブランの「神谷バー」です。
この店は今も大繁盛人気店で、豊富な種類の料理とつまみで、冷えた電気ブランを生ビールをチェイサーに飲みます。
電気ブランは30度と40度の2種類あり、ブランデーベースのカクテルで、ワイン、キュラソー、薬草などがブレンドされていて、昔は不味くて飲めなかった記憶がありますが、最近は飲みやすいと感じます(飲みやすく変えた?私が変わった?)
1階はテーブルに入れ込み式なので、1人でも気楽に入れますし、場合によっては相席の方と親しくなったりします。2階はビールランチもあります。
ここで、お洒落に飲めるようになりたいと思っています。まだまだですね。
2軒目は、10年少し前に閉店していますが、ハイボールの「甘粕」です。
この店は亡くなった御主人の後をお母さんが守っていて、名物はトリスのハイボールでした。冷やした薄手で大振りのグラスにトリスとキンキンに冷えた炭酸を加え、レモンの輪切りを浮かべます。氷はハイボールが薄まるので入れません。これはお母さんから聞きました。つまみは頼めばあるのですが、テーブルに置かれた無料の乾き物(ハイボールとセット)などをつまむようになっています。
このシステムは近所のビールの注ぎ方にこだわった正直ビアホールと同じです。
甘粕は、お母さんが高齢で店を閉めようとした時、常連さんの熱望で土日だけ営業していたようで、とても一見客が入れるような雰囲気ではありませんでした。
記憶が朧気なのですが、ぜひ行ってみたいとその時期何回か伺っていた正直ビアホールで話していたところ、ママさんについておいでと言われ、甘粕の席に座らせていただいたのではなかったと思います。
昔から多くの著名人に愛されたお店で、この日は川端康成の雪国を英訳されたサイデンステッカーさんが端っこに座っておられ、常連さんによると毎週タクシーで通われているとのことでした。
とても新参者が常連さんに先駆けて座っていていいようなお店ではないと思い、何度も行けませんでしたが、こだわったハイボールが美味いだけでなく、著名人にも愛された伝統の空間の中に身を置けたことは幸せな経験でした。
お母さんが亡って閉店しましたが、店構えはそのままでシャッターが閉まった状態になっています。店の前を通るたびに「あこがれ」がよみがえります。
3軒目は、日本酒の「松風」で、こちらは“甘粕”の数年前に閉店しています。
店の奥にカウンターが広がり、その中の中央にお燗場、その後ろには何種かの一斗樽や酒瓶が並んでいました。最期のころは“真澄”中心だったでしょうか。
お燗場には、ベテランの店員さんが位置し、注文を通す口調は、蕎麦の神田藪そば、まつ屋や浅草合羽橋本通堂りのときわ食堂(今お休み中なのは心配です。)のように心地よく響きます。
こちらは、日本酒だけでなく、ビールなどもおいてありますが、何れでも一人三本(合)までと決められていて、酔客は入れません。
私の中では、酒の飲み方を学ぶ総合大学のような位置付けです。
つまみ類は十種類くらいありましたが、お酒を1合注文するたびに出される突き出しの小皿・鉢で済ませる方も多かったのではないでしょうか。
小皿では練うに、頼んだつまみではひずなますが印象に残っています。
ある時、お燗場の前のカンターで一人で飲んでいた時、隣の初老の男性が、お燗場のベテラン店員さんに「昔は3合では足りなかったが、今は3合飲めば十分になった。」と話しかけました。すると、その店員さんが答えます。「お客さん、それは酒飲みの達人になったんですよ。」
いまでも、あの場面は、ありありと思い浮かびます。
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