終活事始め

最大の終活は、健康寿命をいかに長く維持し、周りに負担・迷惑をかけない取り組みをすることだと思います。

ウォーキング番外3 法隆寺の不思議

 法隆寺は、聖徳太子が建立した世界最古の木造建築ということはご存じでも、現存する法隆寺は、聖徳太子が建立した当時のものではないことをご存じない方も多いのではないのでしょうか


 金堂に安置された薬師如来像光背裏面の銘文によれば、用明天皇が自らの病気平癒のため、586年に寺(法隆寺)と薬師像を造ろうとしたが果たせず587年に崩御し、推古天皇と聖徳太子が607年に完成させたとなっており、これが定説です。


 この頃、聖徳太子は、601年に現在の法隆寺東院が立つ位置に斑鳩宮を造営し、605年(32歳頃)に移り住んでおり、この斑鳩宮の西隣に斑鳩寺(法隆寺)をあわせて造営したとされています。


 ところが、日本書記の記述によれば、太子薨去49年後の670年(天智9)、落雷による火災で全ての建物が焼失してしまったのです。この焼失した法隆寺跡は、若草伽藍跡として東院伽藍と西院伽藍の中間の塀に囲まれた中に空き地として残っています。


 708年に若草伽藍から西北に移して、現在の西院伽藍を再建したことも定説となっているわけですが、ここで疑問が生ずるのは、本尊である623年に完成した釈迦三尊像、創建当初の薬師如来像などは、670年の火災時に持ち出されて、保管されていたのではなさそうで、これに関して2つの説があります。


 最初の説は、BS181の「令和の法隆寺~千四百年の伝承と聖徳太子の残響」という番組で紹介されていたもので、現在の法隆寺は、創建法隆寺が焼失する前に聖徳太子の霊廟として建てられていたというものです。
 まず、この寺の縁起にかかわることとして、用明天皇が自らの病気平癒のため、586年に寺と薬師像を造ろうとしたが果たせず587年に崩御し、推古天皇と聖徳太子が607年に完成させたことになっていますが、薬師如来が造形化されるのは607年より後の時代であり、像の様式から見ても制作は釈迦三尊像より後と考えられるとして、法隆寺の成り立ちそのものを否定しています。
 そして、金堂の天井裏調査において、木材の伐採年を年輪年代法で検証すると、金堂の木は法隆寺焼失670年より2年前の668年伐採のものであることから、創建法隆寺が焼失する前に聖徳太子の霊廟として建てられていて、693年に霊廟から金堂へ大転換したという説です。
 薬師三尊像が火災にあわずに残っている説明がつきます。


 この説については、BS103の法隆寺1400年の祈り「至宝でたどる太子信仰」や「松下奈緒 聖徳太子1400年への旅」などを見ると、否定的になります。
 再建金堂は、仏教建築が定着した時代に建てたものにしては、あまりにも構造に弱点がありすぎ、後の時代に、特に2階の内部にたくさんの補強材が入れられているし、屋根を支える支柱も江戸時代につけ足されたものですが、再建後間もない頃から補強がなされていたことが分かっているというのです。
 上部木組みは、力がかかる部分は太くするように適材適所で木材は大きさが変わるところ、金堂は隅から隅まで同じ断面の木材を繰り返し使っており、急いで再建したためか、たくさんの同じ断面の木材を集めてそれを組み立てるようにして造られているので、
 他の建物に予定されていた規格材を流用して再建された可能性が高いというのです。
 聖徳太子の霊廟なら、そのようなことはないですね。


 670年に焼失した当時は、法隆寺を厚く庇護した太子の子の山背大兄王が皇位継承問題に巻き込まれ一族もろとも自害し、一族はほとんで絶えていて、政府から支給されていた俸禄も取り上げられ、寺の格も下げられ、経済的に困窮し危機的な状況にあったため、満足な材木が調達できなかったのではないかと考えられているのは驚きです。


 2つ目の説は、法隆寺棟梁で昭和大修理で手腕を振るった西岡常一氏らの著書「法隆寺 世界最古の木造建築」に詳しいのですが、釈迦三尊像は、太子の妃の一人である膳妃の一族が鋳造し、法隆寺傍に建立した“法輪寺”に本尊として安置していたとするものです。


 創建法隆寺焼失後、関係者は“法輪寺”に身を寄せ、その中にいた百済人の僧らが、創建法隆寺の本尊だった薬師像をつくって、仮に安置していたというのです。
 また、角材を使ったり、梁を渡していなかったことなど、結果的には失敗だったとしながらも、当時の建築の考え方なども解説されていて興味深いです。


 金堂再建後、釈迦三尊像と薬師像は“法輪寺”から運ばれ、中央の中の間に薬師像を、向かって右の東の間に釈迦三尊像を安置していましたが、11世紀後半の記録で配置が変わったのだそうです。これは、すでに完成し太子信仰の中心となっていた東院に対抗するためのものだったとか。


 私は、“法輪寺”を訪れた際、本堂においでになったご住職とお話する機会に恵まれ、西岡棟梁が説かれる再建法隆寺の本尊三体が“法輪寺”でつくられたとすることについて伺ったところ、「そのような説があることは承知しているが、当寺には、そのような記録はありません。」とのことでした。


 謎が多く、ますますその魅力に引き込まれますが、私としては、西岡棟梁の説に惹かれています。


 五重塔にも少し触れさせていただくと、五重塔の再建は、焼失前の塔より一回り小さく設計され、金堂とのバランス上、金堂の高さの2倍にされ、18年かけて再建されているそうです。


 木造建築が、なぜ整然と美しく残っているかということですが、木材が桧(ひのき)だったからもっているので、欅・松なら600年、杉で900年しかもたないのだとか、そして、「木は生育の方位のままに使え」のとおり、その木が生えていたとき、上だったほうを上に、南側だったほうを建物の外側に面するようにしているからだそうです。


 上層にいくほど小さく二等辺三角形で、心柱の伐採は594年とわかっていますが、若草伽藍の焼け残りを活用したか何かの予定で貯木されていたものを探したのかは不明です。
 心柱は、礎石に下に釈迦の骨(舎利)が納められている“卒塔婆”で、各層の建築物はそれを守るためのものなので、心柱に周囲の層は接しておらず、各層は積み重ねられているだけのものになっており、近代の制振構造に合致しています。


法隆寺金堂と五重塔
 修学旅行生とかち合うと大混雑でゆっくり見られませんが、彼ら彼女らは何の興味を抱くことなく堂内を通り過ぎていきます。この空気感だけでも覚えておいてもらいたいですね。


四天王寺 聖徳太子が法隆寺に先んじて最初に建立(593年)
 587年の廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子の戦いに馬子側に組し、仏法の守護神四天王に先勝祈願をし、勝利のあかつきには四天王を祀る寺を造ると誓ったことにより建立
 本堂の金堂には、救世観音が安置されており法隆寺夢殿の仏と同じお顔です。
 いにしえの風の香りはありません。


 法隆寺金堂は、1949年(昭和24年)解体修理中及び壁画修復のための模写が行われていた中で火災を発生させ、天井は焼け焦げたのみでしたが、柱は再使用不可能となるまで焼け焦げ、壁画についても復元が不可能となる損傷を被っています。
 1954年(昭和29年)解体修理を完了し復旧をみましたが、この段階では壁画部分は空白のままで、壁画が壁にはめ込まれたのは1968年(昭和43)になります。


 この火災で損傷した柱や壁画は境内の収蔵庫で保管されていて、通常非公開ですが、今月30日まで、1万円以上クラウドファンディングされた方1日50人限定で公開されていますが、公開中の二酸化炭素の変化などを調べ、将来は一般公開を目指しているそうです。