終活事始め

最大の終活は、健康寿命をいかに長く維持し、周りに負担・迷惑をかけない取り組みをすることだと思います。

死ぬことについて、そして最期の言葉

 前回紹介した和田秀樹先生は、老後、趣味や遊びだけでは、早晩、飽きるので、働けるうちは働いた方がいい、老いても働いている方が、長生きでき、幸福度も高い、そして、人の幸福度に最大にダメージを与えるのは失業だと述べています。
 異議を述べるつもりはありませんが、私自身、かなりハードな業務を勤め上げたという達成感と疲労感が喪失感を上回っていて、今はただ出勤しなくていいという喜びに溢れた朝を送っているので、改めて働く気持ちにはなれません。
 ただ、それも数年で変わるだろうと言われるかもしれませんし、一定の空白感は否めないことは事実ですが、曽野綾子さんの言葉「予定を立ててそれを守らなければならない暮らしはやめる」に惹かれます。そのため、ボランティアなども消極です。
 そこで、働くことに変えて、先生の言われる、いつまでも現役の市民であろうとする(現役意識を持ち続ける)気持ちを維持する手立ての1つとしてブログを始めることにしました。


 テーマの「終活」は、いかに周りに迷惑をかけないようにするか、脳や身体の健康寿命を延ばすことを含めてではありますが、これにより、抗うことなく、粛々と寿命を受け入れられるようにする戦略ということになります。


 その寿命、「死」については、「畏怖」の念はありますが、不遜ながら、68歳の今は「恐怖」でも「受け入れがたい」ものではありません。
 最も恐れることは、周りに迷惑をかけながら生き長らえることです。
 そうならば、早く死んだ方がいいという切望がそのように思わせるのです。


 死後の世界については、仏教でいうような輪廻、解脱、涅槃などは分かりませんし、あの世で成仏するとか地獄に落ちるなどには興味がありません。
 この世に生を受け、灯した蝋燭の火がただ静かに消えるだけという死生観です。
 勤め上げ、育て上げ、十分でなくともやりたいことはやってきたので断ち切りがたい未練もなく、引き際というのとは違うかもしれませんが、「わきまえ」たいと念じています。


 死に至るまでは、健康寿命を延ばし維持する努力や早晩飽きることなく趣味を深めることに務めたいと思います。
 そのことをブログに書くことによって、そのこと自体も残された人生に充実をもたらしてくれる一助になればありがたいです。


 死に際しての心配事が1つあります。
 最期の言葉で、家族に「ありがとう」という感謝の言葉を言えたなら最高なのですが、混濁した精神状態の中で、「あらぬこと」を口走ってしまう心配です。
 最期の最期に家族ではない見知らぬ人の名を呼んでしまうとか妄想の単語を連発するなどの話を聞いたことがあります。
 「終わりよければ全て良し」という言葉がありますが、最期を間違うと取り組んだ終活が無為のものになりかねませんし、家族に負の遺産を残すことにもなります。
 このことを回避することも終活として取り組みたいのですが、ヒントとなるような書籍などが見つけられていません。
 意識混濁状態かも分かりませんが、心穏やかに保つことが第一ですね。
 自分の死に際には、頭の中で、どのような映像が浮かび、メロディーが奏でられているのでしょうか、それを意識して日ごろから思い浮かべる訓練でもしていなければ、煩悩むき出しの妄想が暴れ馬の走馬灯のようにぐるぐる回転してしまうかもしれません。
 映像の候補は、幼いころの子供達の笑顔、夏の海、大和古寺、古都、静謐な庭、好きな女優など思い浮かびますが、仏像なども良いですね。
 宗教に関心はありませんが、日本の仏像は西洋の彫刻に勝るとも劣らない芸術品であり、穏やかなお顔は自然と心和ませ、落ち着かせてくれます。三十三間堂の千体千手観音像は
パンフにある「“大いなるもの”にいだかれる安堵感と歓喜に似た心の高まり」そのものです。
 でも、すぐには決まりそうもありません。
 音楽もそうですが、これは映像とペアでないとアンバランスですね。
 幼いころの子供達の笑顔ならチャイコフスキーのくるみ割り人形、仏像なら声明、バロック、ジャズ?
 ゆっくり考えます。


※ 三十三間堂には、中央の中尊である千手観音坐像の蓮華王像そして、前列左右の風神、   
 雷神、そして帝釈天王や毘沙門天王などの二十八部衆像を包むように1,001体の千手観音  
 像が置かれています。全て国宝で、それぞれに作者が異なり、お名前が付けられています(単なる大量生産品ではなく一体一体が芸術品)。
 1,001体あるので、自分や思う方に似た仏が見つかるといわれています。