終活事始め

最大の終活は、健康寿命をいかに長く維持し、周りに負担・迷惑をかけない取り組みをすることだと思います。

ウォーキング番外2 聖徳太子の不思議

 聖徳太子(574年―621年(49歳))は、紙幣の肖像に7度も採用されるなど、日本最大の偉人であると、私などは何の疑問なく教えられたのですが、最近では、厩戸皇子の存在はともかくとして、聖徳太子という呼称の人物像の虚構性などから中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」について一切記述しないものが多くなっているようです。


 「聖徳太子」とは聖人の徳を備えた皇太子という意味があり、死後につけられた尊称で、薨去129年後の751年編纂された現存する最古の日本漢詩集「懐風藻」に初めて出てくるのだとか。
 これだけの偉人なのですが、厩戸皇子が登場する資料はほとんどなく、薨去98年後の720年に完成した日本書記に初めて詳しく書かれていて、名前については「東宮聖徳」、「上宮(かみつみや)」(太子の一族が居住していた斑鳩宮を指して「上宮」と呼称)といった尊称も見受けられるものの、「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこ)」とされているそうです。
 平安時代に成立した史書等はいずれも「聖徳太子」と記載していて、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたと考えられています。


 日本書記は、国家によって正式に編纂され、日本という国名が初めて使われた日本初の歴史書です。681年に第40代天武天皇の命令により編纂が始まり、720年に完成した全30巻のもので、1・2巻は、神々による日本の創生の神代紀、3巻以降は、初代神武天皇から第41代持統天皇までの天皇家の歴史が綴られています。ただ、自身の皇位継承を正当化するための天武天皇や天武天皇崩御後に編纂に携わった藤原氏など権力者によるあきらかな捏造が認められているのだそうで、神代紀などはもとよりですが、聖徳太子の超人伝説、聖徳太子の息子山背大兄王を蘇我入鹿が単独行動で襲撃して一族自害させたこと、大化の改新のきっかけとなった中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足が蘇我入鹿を討った乙巳の変のこと、天智天皇の息子の弘文天皇(大友皇子)と弟で後に天武天皇となった大海人皇子が争った壬申の乱のことなども捏造している部分があるとみている説が有力のようです。


 従来は、厩戸皇子(聖徳太子)は、叔母に当たる第33代推古天皇の皇太子兼摂政として政治改革にまい進し、冠位十二階、十七条憲法を制定、遣隋使を派遣して大陸の文化・文明を吸収し、四天王寺を始めとし、法隆寺など多くの寺院を建立し、仏教の普及に尽力したとなっていましたが、その頃は、皇太子や摂政という地位はなかったし、十七条憲法も天武天皇の時代以降につくられた可能性が高いことから、その制定には携わっていないことが分かってきているのだそうです。


 ただ、皇太子という名称はなくても、推古天皇に後継者として指名されたことは事実のようで、指名者である推古天皇より早く薨去してしまったので結果として即位することがなかったということのようです。


 また、現在の法隆寺の東院のある場所に斑鳩宮を造営し、この地を拠点として活躍したことも事実のようで、605年には、当時の国際玄関口である難波にアクセスがよいこの地に移住し、外交を担ったと考えられており、遣隋使を派遣していますが、それが本来の業務だったようなのです。


 皇子は、蘇我馬子建立の飛鳥寺の住職を務めた高句麗僧の慧慈(えじ)や百済の学者であった覚哿(かくか)から、隋の国力の大きさ、東アジア情勢を学んでおり、見識が高く、
隋に対抗する国にすることを目指し、隋と直接国交を結ぶため、遣隋使を派遣し、大陸の文化や制度を持ち帰らせ、身分制度、法律、宮殿、道路の整備の推進に寄与したことや蘇我馬子と共に天皇を補佐したことには間違いはなさそうです。


 ただどのくらい政務を担っていたかということに関しては、皇子の住む斑鳩宮から、都であった飛鳥までは、片道約24kmで、馬ぞろえ(時速6.6km)で3時間半かかることから、ブレーン的に天皇と蘇我氏の政治をサポートするという立場で、必要に応じて飛鳥(皇子誕生の地である橘寺)に滞在したと考えられているようです。


 皇子の最大の功績は仏教を広めようとしたこととも言われます。
 当時の仏教は単なる宗教ではなく、教育、医療、建築など総合的な文化であり、仏教の力で先進国に変えようとしたのだそうで、建物にしても地面に穴を掘って柱を立てる掘立柱建築だったものを基壇を造って礎石を置いて、朱塗りの柱、瓦葺きに移行させることに寄与していますし、五重塔のような今でいう超高層ビルまで建立したのです。


 さらには、仏教の経典(法華経、勝鬘経(しょうまんぎょう)、維摩経)の注釈書である
三経義疏(さんきょうぎしょ)は皇子の制作であることが、最近明らかになったようです。
 推古天皇の仰せにより3日間に渡り勝鬘経の講演を行っているようなのですが、勝鬘経は、女性は成仏できないという経典が多い中、女性を受け入れ救済を説く内容(法華経も女性の成仏や救済について記されている)で、このため女性天皇や女性有力者から信仰・援助を受けたのだそうで、法隆寺には、推古天皇所持の玉虫厨子や聖武天皇夫人光明皇后の母である橘夫人の念持物厨子まで置かれていますし、橘夫人は西円堂(鎌倉時代1248年再建・国宝)まで発願され、東院伽藍の造営は光明皇后と周辺女性たちが積極的に支援され、現在まで続く聖徳太子信仰の礎となっているようです。


 それでは、なぜ、日本書記は、厩戸皇子を超人的皇太子に仕立て上げる捏造をしたかということですが、厩戸皇子の頃にはなかった皇太子制度が7世紀後半に中国から輸入されたのですが、皇太子というものの共通認識ができていなかったところ、日本書記が完成する720年に皇太子になったのが後の聖武天皇となる首皇子(おびとのみこ)で、編纂に大きな力をもっていた藤原不比等の孫のこの皇子に皇太子の理想像を見せるためのものだったと言われています。


 このことは、のちに聖武天皇が仏教に厚く帰依し、大仏建立することに繋がっていると見られています。


 十七条憲法は聖徳太子の制定でなく、偉業そのものも捏造となると、亀井勝一郎氏の「大和古寺風物詩」の中で、“十七条憲法は治世のための律法でもなく、単なる道徳訓でもない。…太子自身の率直な祈りの言葉なのである。…同族殺戮の日において民心に宿った悲痛な思いと願いを、一身にうけてあらわされた…かくあれかしと衷心より念じ給うた言葉であって、その一語一語に、太子の苦悩と体験は切に宿っている…。」というその時代を端的に表した身に沁みるフレーズが空しくなります。


 飛鳥時代・白鳳時代・天平時代は、豊かな文化を生み出していますが、決して安穏の時代ではなく、殺戮と苦悩に満ち満ちたものであったことは間違えありません。



聖徳太子生誕の地 飛鳥橘寺(聖徳太子の祖父欽明天皇の橘宮が置かれたところで後に推古天皇の命で太子が寺を建立したと伝わる。)
当時は66の堂宇が立ち並ぶ大寺院で、38mの五重塔がそびえていたと推定されているが、現在は江戸期に再建された僅かな諸堂を残すのみとなっている。


飛鳥橘寺遠景


東方雷遺跡(推古天皇の宮である小墾田宮(おはりだのみや)があった可能性の高い遺跡で、聖徳太子もこちらで政務を執られた。
今は田畑になっていますが、山々に囲まれた風景は昔のままです。


番外の番外 飛鳥宮跡
7世紀半ばの皇極天皇の宮殿である板蓋宮(中大兄皇子が蘇我入鹿を討った乙巳の変(大化の改新)の舞台)、岡本宮や天智天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮が置かれたと判明している。
持統天皇が694年の藤原京に遷都され廃止された。
発掘調査もなされているが、今は埋め戻されている。