終活事始め

最大の終活は、健康寿命をいかに長く維持し、周りに負担・迷惑をかけない取り組みをすることだと思います。

ウオーキング番外4 聖徳太子御霊廟

 以前、ウォーキング番外2で聖徳太子の不思議、ウォーキング番外3で法隆寺の不思議を書いていますが、聖徳太子(今はもう架空の人物としか言えないかもしれませんが…)の生誕地、居住した斑鳩宮と法隆寺など、推古天皇時代に政務した飛鳥の都である小墾田宮(おはりだのみや)、最初に建立した四天王寺など所縁の地を巡って、是非、御霊廟も訪れてみたいとの思いが高まっていました。
 聖徳太子のお墓である御霊廟の場所をご存じの方は多くはないと思います。
 大阪府の太子町という所なのですが、飛鳥ではなくなぜ大阪の地なのか疑問だったので、改めて調べるとともにウォーキングがてら訪ねてきました。


 太子が活躍した飛鳥時代の政治の中心は奈良・飛鳥にあるにも関わらず、この時代に活躍した人物の御霊廟は太子に限らず、大阪・河内地方に集中しています。
 いずれも蘇我氏一族に近い人物のものですが、このあたりは河内飛鳥とも言われ蘇我氏の本拠地になっていたことから御霊廟が置かれたのではないかということです。
 父の用明天皇をはじめ、推古天皇、敏達天皇、孝徳天皇と太子に所縁の強い天皇陵が密集しており、太子自身が生前からこの地に墓所を決めていたと考えられています。


 また難波の港へ抜ける竹内街道の通る場所で、精神的にも政治的にも重要な(神聖な)場所と考えられており、都を難波に有していた第16代仁徳天皇の頃から、難波から見て近い飛鳥だったので、近つ飛鳥と呼ばれ、今の明日香村のあたりは難波から遠い、遠つ飛鳥と呼ばれていたようで、現代の行政区分上は大阪府ですが、当時は、“大和”で一体だったので、おかしなことではなくなります。


 ただ、蘇我馬子の墓とされる場所も太子の御廟の近くにありますが、これは誤りのようで、前回訪れた石舞台が馬子の古墳だとすると、なぜ蘇我氏由来の地ではないかと整合が理解できませんね。


叡福寺
聖徳太子の御廟所があります。
叡福寺は、石川寺、太子寺、御廟寺とも称され、四天王寺、法隆寺とならんで太子信仰の中核となった寺院で、太子薨去後、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟を守る香華寺として僧坊を置いたのが始まりです。
神亀元年(724)には聖武天皇の勅願より七堂伽藍が造営されたと伝わっています。
天正2年(1574)、織田信長の兵火により堂塔の全てを失いましたが、慶長8年(1603)豊臣秀頼により聖霊殿が再建されたのをはじめ、江戸中期にわたって宝塔、金堂などの廟前伽藍が再興されています。


聖徳太子御廟所
大和から二上山を越えて河内に入った丘陵を利用した円墳(高さ7.2m、直径54.3m)で、内部は横穴式石室になっています。周囲は結界石で二重(観音の梵字)(浄土三部経)に取り囲まれています。

推古30年(622)に太子は49歳で薨去されましたが、前日に亡くなった妃 膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)と、2か月前に亡くなられた母穴穂部間人( あなほのべのはしひと)皇后と共に埋葬され、三骨一廟といわれています。
その思想は、阿弥陀三尊が人間の姿となりこの世に現れ人々を救うという、太子を救世観音の生まれ変わりとする太子信仰の象徴となり、この御廟には太子を敬う空海や親鸞、叡尊、良忍、一遍、證空、日蓮など諸賢聖のほか、名僧が参籠し、日本の大乗仏教の聖地として栄えたのだとか。
境内には、弘法大師自ら三鈷をもって刻んだ弘法大師像を本尊とする弘法大師堂や親鸞聖人が88歳の時の御参籠の折、自ら刻まれた親鸞聖人坐像を本尊とする見真大師堂がありますが、聖徳太子伝説がフェイクならば、これら高僧の参籠は一体何だったのだとの思いにかられます。


聖徳太子御廟所の横穴式石室内部復元(「近つ飛鳥博物館」展示物)

明治初期までは石室内に入れたようで、その記録を元に復元されたもの。
高さ3m、長さ12.5m、入り口は右側の穴部分で、写真は縦断方向の断面。
一番奥(左側)にある石の箱のようなものは母君のもの。
入口部分には2つ並んで白い石製の台の上に黒塗りの棺があり、奥側がやや大きく、太子のもの、手前側がやや小さく妃のものとされています。


万葉集にも詠われる「二上山」が東にそびえ、山の向こうは奈良というこの地域は、「王陵の谷」とも形容され、太子以外にも敏達、用明、推古、孝徳の天皇陵が点在していて、町のホームページを見ると、4キロ四方の中に点在する5つの陵墓は、5枚の梅の花びらを想起させ「梅鉢御陵」と呼ばれるとか。
この5つの御陵で、古墳時代から飛鳥時代にかけて墳の形が「前方後円墳」から「方墳」「円墳」と変わる様子が見て取れるのだとか。


父君用明天皇の御陵墓(方墳)


推古天皇の御陵墓(方墳)


竹内街道

竹内街道(たけのうちかいどう)は、飛鳥時代に造られ、後に堺と奈良・当麻町を結ぶ全長約30kmに拡張された日本最古の「国道」です。もともとは二上山で石器の材料とされたサヌカイト(硬い石で割って刃物の役割)を採掘するための道でしたが、推古21年(613)に、難波の港から飛鳥の都をつなぐ官道として整備されました。
以降、仏教などの外国文化や外国からの使節がこの街道を通って都へ入っています。
710年に奈良の平城京へ遷都後は聖徳太子御廟詣で、中世末では堺と大和をつなぐ経済の道として、江戸時代には西国巡りなど寺社詣での道として使われてきました。
「竹内街道」という名称は、竹内峠での大改修が行われた明治時代につけられたものだとか。


 今回は、大阪名物である関西風うなぎであるまむしと大阪寿司(押寿司)についても考えてみましたので、番外の番外ですが、次回以降書かせていただきます。